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"La Peste" Albert Camus

 アルベール・カミュの「ペスト」を読みました。
 新潮文庫、宮崎嶺雄訳のものです。

 「ペスト菌は・・・数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ちつづけていて・・・」と末尾にありますが、手にした本は私の書斎の本棚、二列目の奥の仄暗い空間に微かな呼吸で生きながらえていました。
 3月23日の某新聞紙上で仏文学者の鹿島茂氏が「ペスト」を引いて今度の大震災について考察されていましたが、その記事を見た瞬間、ふと背筋に悪寒がはしりました。もちろんその内容に起因した感覚ではありません。
 ここ数ヶ月、この本が書斎の奥のそこに居て、不気味な燐光を放ちながら私に語りかけようとしていると感じていたからです。これほどの天災が起こるまえに手にしていたとしても、今こうやって凄惨な状況を知ってから手にしたにせよ、結局「ペスト」は私に災禍について警告するために存在していたような不思議な感覚をおぼえます。


 究極の不条理である天災は、避けられぬもの、いつかどこかで人類が必ず経験するものでしょうが、人は日常努めてそれを忘れようと思考し行動するものです。これはあたかも、誰もが我が身に必ず死がおとずれると知っているのに、普段それを現実のこととして考えないようにしているの同じです。カミュはリウーの口を使って「この世の秩序は死の掟に支配されている」とくり返し語ります。「死の掟」には眼をつぶり、現世的な消費や恋愛にいそしんでいるのが多くの現代人の生活でしょう。
 しかし3月11日、「死の掟」は瞬時に大地に巨大な開口部をつくりました。そこからあらゆる災禍が一気に噴出しました。21世紀の日本の関東に「ペスト」の世界が忽然と現出したのです。私たちは「死の掟」を目の前に突きつけられました。
\"La Peste\"    Albert Camus_e0163202_19553093.jpg



 「ペスト」はカミュの不条理の哲学を小説という形式に緻密に打ちこんだものです。読んでいて心動かされるフレーズが随所に見られました。ここで示されたその思想は、六十年以上の歳月を経ていっこうに風化せず、きわめて新鮮で切実なものに感じました。サルトルには論破されたのかもしれませんが、私は不条理を知った人間の選択の一つとして極めて真っ当な考え方だと感じたのです。この文章を書こうと思った動機はここにあります。

 この小説は医師リウーのペスト災禍における「犠牲者の側に与した」記録を主軸に、「人生(=不条理)について、もうすっかり知っている」と自認するタルーの「瑣末事ばかりとりあげる方針に従ったと思われる、きわめて特殊な記録」によって広がりや奥深さをえる、という構成になっていると読めます。

 リウーは神を信じていません。世界は「死の掟」に支配されていると考えます。
 リウーは「誠実さ」を重んじます。しかし人間社会に過度な期待はしていません。
「僕は留保のない証言しかみとめないんです」
「これは自分の暮らしている世界にうんざりしながら、しかもなお人間同士に愛着をもち、そして自分に関するかぎり不正と譲歩をこばむ決意をした人間の言葉である」
とリウーはいいます。ここにカミュの不条理に対する立場が明示されています。
 すなわち、世界を支配しているのは「死の掟」=不条理であり、人間はそれに影響を及ぼすことは不可能である。しかし決して不条理に屈することなく、人間は「邪悪であるよりむしろ善良」と信じ、誠意をもって行動するべきだ。
 ただし、たびたびくり返されるのは「ヒロイズムを信じない」という言葉であり、
「同情がむだである場合、人は同情にも疲れてしまうのである。そして心の扉がおのずから徐々に閉ざされていくその感じのうちに、医師はこういう圧しつぶされそうな日々の唯一の慰めを見いだしていたのであった」
「抽象と戦うためには、多少抽象と似なければならない」
「彼はまた、抽象が幸福にまさる力をもつものになることがあり、その場合には、そしてその場合にのみ、それを考慮に入れなければならぬ、ということを知っていた」
 ここで抽象は不条理のことを示します。
 タルーの「なぜ、あなた自身は、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに?」という問いに対し、リウーは、
「もし自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神に任せてしまうだろう、・・・世に何びとも、・・・かかる種類の神を信じていないのであって、その証拠には何びとも完全に自分をうちまかせてしまうということはしないし、そして少なくともこの点においては、彼リウーも、あるがままの被造世界と戦うことによって、真理への路上にあると信じているのだ」
と応えています。
 カミュは不条理論者であるがゆえの無神論者といえそうです。
 対蹠的に人間を「人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多い」と信じています。殺人者さえも、ただ盲目であるだけだと考え、「明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない」と真の理解の重要性を訴えます。
 タルーは訊きます。
「誰が教えてくれたんです。そういういろんなことを?」
 リウーの答えは明快です。
「貧乏がね」
 戦争や天災にまきこまれぬかぎり、多くの人にとって貧困こそが最も一般的でしかも深刻な不条理に違いありません。


 さて、タルーの立場はリウーと大きく異なりませんが、特徴的なのは非暴力主義です。
「こんにちでは人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理のなかに含まれていることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身ぶり一つもなしえないのだ」
「なすべきことをなさねばならぬのだ、それだけがただ一つ心の平和を、あるいは・・・恥ずかしからぬ死を期待させてくれるものなのだ」
「そういう理由で、僕は、・・・人を死なせたり、死なせることを正当化したりする、いっさいのものを拒否しようと決心したのだ」
 カミュはキリスト教もそして当時東ヨーロッパを暴力で壟断していたコミュニスムをも否定し、独自の第三の立場をとったことがうかがえます。
\"La Peste\"    Albert Camus_e0163202_19563255.jpg




 人は神なしで生きてゆけるのか?
 全能の唯一神を信仰する宗教が一般的な地域では、この問いかけは重大なことでしょう。カミュが神というとき、その神はもちろん一神教の神です。神について考えるとき、それは全てか無かの選択を迫る神です。半ば信じ半ば信じないという選択はありません。
 ここに登場するキリスト者パルヌーも、その選択において当然ながら、しかし苦悩したすえペストの身を放棄し神への帰依をとりました。
 神を捨てたカミュは、人を殺してしまう怖れから逃れ心の平和を得るためには、ただ行動するしかないとくり返し訴えます。心の平和はそれによってのみ得られる可能性があるといいます。
 しかしなすべきことに全力を尽くし、結果ペストに罹ったタルーには決して心の平和は訪れず、彼が手にしたのは「恥ずかしからぬ死」だけでした。カミュの哲学に添って生きた場合、心に平静はあっても平和はないといえそうです。


 我々日本人が神を考えるときそれは神社の神であり釈迦でもあって、多くの人の心に神仏混淆が根ざしています。先祖の霊に救済を祈ったり海や山の神に豊漁や豊穣を祈ったりします。日本人が祈るとき、その対象が多数の神々もしくは神に準じた力になることは度々です。
 日本人は伝統的に稲作を生活の糧にしてきました。稲作を支配するのは雨であり太陽です。また雨水を蓄えるのは山であり森です。したがって自然に対する畏敬の念が育ちやすく、また他の動物と共存する気持ちがはたらきやすくなります。自然のいたるところに神が存在すると認識する汎神論・多神教が誕生しやすい土壌をもつと考えられます。
 方や狩猟民族、遊牧民族であるヨーロッパ人は、自然(動物)を支配することによって生活してきました。ここでは支配者たる人間の力に重きがおかれ、自然は支配されるべきものと考えやすい。そういう思考から生まれてくるのは、支配者たる神、自然の創造者たる神、つまり一神教ということになるのでしょう。
 さて、多神教の神は人間的な性格を有し、極めて人間的にふるまうのが一般です。神道はもとより古代ギリシャ、ヒンドゥー、ケルトなどを見ても明らかです。そこには川端が「抒情歌」でいう「裸で晴天の青草の上に踊るようなすこやかさ」が感じられます。
 私は多神教の「おおらかさ」「あいまいさ」が不条理と対峙した際の人間的強靭さをもたらすのではないかと考えます。一神教文化の影響下で育ってそこで生活する人が神を捨て、カミュ的不条理の哲学に添って生きるのはかなりしんどいのではないかと私には思われます。そういう人が、果たして実際にどのくらい存在していたでしょうか。
 不条理との戦いが「際限のない敗北」と認めながら、過度に人間に期待しすぎないカミュ的ヒューマニズムを武器に不条理に抵抗できるのは、不条理を理解し、それゆえ敗北を受け入れ心の平和を諦めたリウーやタルーのような人間にしかなしえないと思います。
 不条理に対して無知な不条理人たるグランのような人間も抵抗する力量を有すのでしょう。カミュはあえて彼を不条理のヒーローと書きこんでいますが、さて、こういう種類の人間は希有な気がします。

 今回被災地において私たちの同胞がとった思考や行動に、私は多神教的「おおらかさ」を感じます。東北人はさらにその特徴が色濃い気もします。
 残虐で無慈悲な大量殺戮にたいしても、自然という人間にはどうにも力の及ばない大きな力が下した裁決と、ただひれ伏し泣き崩れ従った。決して恨んだり八つ当たりしたりしなかったのです。天災を不条理と考えるよりも自然本来の姿と捉えた。そこに戦いはなく、よって敗北もなかったわけです。
 こういう立場は、見方によるとカミュ的不条理論よりもしなやかで強靭であると私は思います。
 彼らはきっと立ちあがることでしょう。そして戦いの場につくのではなく、いにしえからつづけられてきた自然との知恵比べに再びとりかかるのだと思います。

 「ペスト」には、天災が発生した際、政府や関係当局がどう動くかについても詳細な検討がなされています。それは時間を越え遠くはなれた日本の地においてもことごとくあてはまるものでした。
 筆致が感情的にならず簡潔で、そこかしこに象徴や哲学的示唆がちりばめられているせいで、一般的な当時のフランス文学にない独特の趣があります。そのため私のこの文章にも多く引いてきたいという欲求が抑えられませんでした。
 ひとつ読後心の澱として残ったのは、カミュはリウーの母以外になぜ女性を登場させなかったかという点です。

 前出の鹿島茂氏は「カミュは『ペスト』的な不条理と戦おうとすると『ペスト』よりも悪いスターリニズムというスーパー不条理を呼び込んでしまう危険性を警告しているのである」と警告しています。
 「貧困という不条理と戦ったことのない今の日本人の中から、地震・津波・原発事故といった究極の不条理と戦える指導者が現れるだろうか?」と悲観的な意見を漏らしています。
 答えは氏の論説から三週間が経った今日の状況を見れば、誰の目にも明らかです。歴史は貧困、成長、完成、爛熟、斜陽、瓦解をくり返すのでしょうか。
 しかし不条理とやり合える指導者(カミュは冷笑するでしょうが)が生まれるとしたら、私はスターリニズムよりもファッシズムが台頭するのではないかと危惧します。瓦解のあとの貧困は、その最適な培地です。無策の政府が生きながらえ経済がさらに落ちこんで失業率が上昇、インフレでも起ころうものなら一気にその危険は現実味を帯びるでしょう。

 私は最後に考えなければなりません。
 原発事故は、鹿島氏が言うように本当に究極の不条理かと。
 居住地から立ち退きを余儀なくされた人々にとってそれが現実の不条理であることに疑いはありません。しかし、今や世界が注目する福島の鳥瞰図に不条理の匂いはないと言えるでしょう。不条理は描けないもの、実体のまるでつかめぬもの。色はなく輪郭もなくふと現われておおい尽くし、徹底的に奪い、またふと音もなく立ちさり死の記憶だけを残すもの。
 ところが、原発事故は感心の薄いものには虚偽で塗り固められた高い壁として、目を凝らしてみる者には黒々とした政治腐敗の血痕、資本原理主義的企業論理の業火、政・官・業・報の赤く爛れた癒着の病巣として地獄図の如く映しだされています。
 不条理に有効な日本的「おおらかさ」がこの人災に盲目であることが今の日本の最も忌むべき病理である、そんな気がしてなりません。
「おおらかさ」はごく小さなコミュニティにおける不正に寛容です。馴れ合いは甘く淀んだ心のよりどころです。しかしその単位は個人の意識できぬ間に微小から極大にまで膨張し、不正が地域、市町村、都府県、そして国全体に蔓延している気がします。
 日本人は礼を重んじ義理堅い。和を尊び仲間内の論理を大切にします。ところが一神教の神をもつ民族のような神との契約に基づく「正義」という感覚が欠落しているようです。法に抵触しなければよい、もしくは法を多少犯してはいてもそれが集団的になされていればよろしいという感覚がはびこっています。うちなる道徳の声に耳を澄まし正義を遂行しようとする使命感が乏しいともいえます。
 自分が属す集団の論理を重んじ、そのなかの和を保つためには悪に目をつむり正義をもちだすことを野暮として避けようとするものです。
 こういう感覚鈍麻は、今回の原発事故のような巨悪に由来する人災の前でさえ不感症の皮膚を脱ぎすてることを拒みます。

 3月11日を境にして世界が一変したと感じるのは、いまの日本人の多くが共有する感覚です。「ペスト」の世界の現出は、この変化をどう捉えてどう行動に移すべきかを強硬に迫ってきています。
 不条理にどう向かうかを熟知する日本人は、何より人災に悪にどう立ち向かうかを知るべきです。政治を責める前に、正義とは何かを問いなおす必要があります。それができなければ、再び「貧困」の焼け野原に立つことになると覚悟しなければなりません。
 

 
by musignytheo | 2011-04-16 19:58 | essay | Trackback | Comments(0)


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